人生をピボットしたい。
スタートアップの世界ではピボットという単語がよく聞かれる。最初にやろうと思っていたビジネスのアイデアが、マーケットのニーズとフィットしないとわかったときに方向転換を行うことだ。
ピボットは悪いことではないと考えられている。間違った方向に突き進むよりも途中で方向転換して正しい方向に進んだほうが良いからだ。これは誰が見てもそうだろう。
自分は、自分の人生が間違った方向に進んでいると思っているわけではないものの、ベストな方向に進んでいるという気持ちもまったくない。ベストじゃないのならばピボットすべきなのだ。人生はベストを尽くすためのもの、命は燃やし尽くすためのものなのだ。
ピボットに次ぐピボットを重ねて人生を株式公開させたい。自分は今までカネというものに全く縁のない人生を歩んできたが、金持ちになりたいという願望はある。金持ちになって何をするのか。世界旅行したいとか宇宙に行きたいとか豪遊したいとか放蕩の暮らしをしたいとかいう気持ちは殆どない(少しはある)。それよりも、カネを配れる人間になりたい。
自分がいいと思うものにカネを配りたい。事業投資みたいなことがしたい。人間は愚かなので、短期的に快楽を得られるような商品にカネを払いがちである。長期的な利益にカネを払う行動を取れる人は賢いが、人類の大多数は直近の不利益を避けたり、短期的に快楽を得られるようなものにカネを払う。これは行動経済学とか行動主義心理学の実験でも実証されているらしい(前に少し本で読んだ)。長期的に人類全体に利益をもたらすような事業には資金が集まらない。結果、事業は継続しない。人類はますます近視眼的になってゆく。
人類は永遠の相で世界を眺める必要がある。長期的な視点を持つべきだということだ。だから長期的な視点を持っているが短期的に生き延びることができない数多の事業に投資をしたい。投資と言っても自分が生きている間にリターンが受け取れるとは思えないので実際は寄付だ。寄付みたいなことがしたい。莫大なカネは世界を変える。世界を変えるくらいのカネがほしい。
そのためにはピボットだ。人生をピボットさせる。日本ではピボットは批判されがちだ。一本筋の通った人間がかっこいいと思われているからだ。努力と根性で初志貫徹。前言撤回はダサい。そのような空気がある。しかし前言撤回は成長の証だ。
それどころか、日和見的にコロコロ意見を変えることも大切かも知れない。他人から見れば人間のクズそのものという振る舞いになるかも知れないが、大多数の人間が近視眼的な事業に投資をする世の中だから、それに合わせて身過ぎ世過ぎをすることを誰が責められようか。自分自身は超近視眼的な事業をいくつもやってカネをあつめ、長期的な事業にカネを投入する。そんな生活が理想だ。
近視眼的な事業とはなんだろうか。今現在であればウイルス対策の事業がそれにあたるかもしれない。
こうして考えてみると他人の不幸で金儲けをするのが近視眼的なビジネスなのだろうと思う。もちろん不幸をカネで実際に救済することができれば立派なものだが、大半はそんなこともないだろう。転売屋のビジネスがこの世に何も生み出していないけれども儲かっているのと同様に、この世に存在しなくても問題ない、何も実質の富を生み出していない、そうでありながらものすごく儲かっている、まさしく文字通りの __虚業__ がこの世には沢山あるはずだ。
そうした虚業の世界へと、ピボットするべきタイミングというものが、もしかしたら自分の人生にもあるのかも知れない。
(※写真はフリー素材です)