ラッセルは有名な数学者・哲学者だが、経済にも関心が深かったらしく色々と述べている。一般的なラッセルのイメージはアインシュタインと一緒に反核のメッセージを訴えた偉い人で、政治的には中道な感じの学者、みたいなものだと思うのだが、この本では自分の政治信条を正直に社会主義者であると語っている。
面白いのは、社会主義の中でも敢えて科学的な社会主義ではなく空想的な社会主義を是としているところだ。ラッセルは数学者であり、むしろ科学的な考え方をするのが自然なのだが、社会主義に置いては空想的社会主義を選んだ。科学的社会主義とはまあ言ってしまえばマルクス主義及なわけだが、マルクスの科学的社会主義が生み出したものはラッセルにとっては暴力的であったらしい。
科学的な考え方の持ち主が空想を愛好するというのは一見すると逆説ではあるが、よく考えれば矛盾していないのかもしれない。空想がなければ科学は発展しないのかもしれない。また、空想は幻想とは違う。空想は未来の構想でもある。実際にラッセルやロバート・オーウェンなどの空想的社会主義者は自著において空想を語っている。市民の住居は整然としていなければならない。教育は十分に行き渡らねばならない。物資は必要なものが十分に供給されねばならない。空想ではあるが、異世界の幻想ではない。現実社会の行く先として未来を想像しているのである。
この関係はSF小説と先端技術の関係にも似ている。ユートピア小説はSF小説のサブジャンルとされることが多いが、ユートピア小説と空想的社会主義の関係は深い。トマス・モアの『ユートピア』は文字通りユートピア社会主義の名前の由来となっている。空想と現実が相互作用をしながらこの社会を作り上げてきたという歴史がある。科学は人類を前に推し進めるものであると考えるならば、空想は科学を前に推し進めるものだと言えるかもしれない。場合によっては科学自身よりも科学にモチベーションを与えるのが空想なのかもしれない。
怠惰の肯定は、ラッセルが空想的社会主義者であったことを理解した上であれば自然に納得できる。怠惰、つまり働かない事によって生まれる暇は科学者にとっても重要なものだ。暇がなければ真に生産的な活動はできない。食料を生産することも無論生産的ではあるが、食料の生産を10倍効率化する装置を開発することはもっと生産的だ。しかしその装置は暇がなければ作れない(し、暇があるからと言って必ずその装置が生まれるというものでもない)。
怠惰はモンテーニュ風に無為と言い換えても良いのかも知れないが、無為は本当の意味で何もしないことであり、それはそれで良いことではあるのだが、怠惰とは違うように思う。ラッセルの考える怠惰(Idleness)は、プログラマの三大美徳の一つとされるあの怠惰(Laziness)と少し近い。プログラマの怠惰が定義上常に生産性を念頭に置いている以上、予想もしなかった発明を起こす可能性が高いのはラッセルの思い描いた古代ギリシャ的な怠惰と暇だろうと思う。
万人が働かなくて良くなったとき、本当に生産的な社会が生まれるのだと思う。人間が労働しなくていいということは、あらゆるインフラが自動化されるということである。人類の当面の課題はあらゆることの自動化だ。人類にコントリビュートしたければ何かを自動化するための装置やソフトウェアを書くのが一番手っ取り早そうだ。