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ZombieLandSaga

続編である『ゾンビランドサガ リベンジ』が放映中であるが、以下は一期の『ゾンビランドサガ』について書いた文章である。


『ゾンビランドサガ』には「学習性無力感」あるいは「学習性無気力」と俗に呼ばれることもある現象をいかに克服するかというテーマがある。

それは第十一話、第十二話において顕著であるが、実際には作品を通して存在するテーマである。

たとえば、第一話ではメンバーの中でただ一人意識を取り戻した源さくらは、アイドルとして活動することに懐疑的で無理だと感じていた。

しかしデスメタルイベントのステージで絶叫とヘドバンを経験することで、ステージに立つことの可能性を見出す。

また、第二話ではさくら以外のメンバーもアイドル活動を無理だと感じているが、さくらの即興ラップによってサキ・リリィ・ゆうぎりはアイドル活動を肯定的に捉える様になる。

第三話でも愛・純子について同様の過程が描かれる。この二人については後の第六話、七話においても、死亡した原因というトラウマの克服・アイドル観の違いという壁の克服が再度描かれる。いずれも「無理」だと思っていたことを成し遂げる過程が繰り返される。

八話では死んでしまった人間が生きている人間を元気づけるという「無理」を、九話では子が親と和解するという「無理」を、それぞれ可能にしてみせる。

十話においても同様だ。さくらは一度、他のメンバーと歩調を合わせることを「無理」だと判断してしまう。

『ゾンビランドサガ』の「無理」の克服は、しかしこの作品独自のテーマだと言えるだろうか? 登場人物が壁を乗り越えるというプロット自体はありふれたもので、成長を描こうと思えば必然的にこのような骨組みを物語は持つだろう。

しかし、この作品における「壁」の特徴は、それを乗り越える当人が、乗り越えることを「無理」だと断じている点だ。『ゾンビランドサガ』において壁とは常に自分自身が「無理」だと感じていることそれ自体である。

この作品では終始、「無理」だという判断が思い込みに過ぎなかったと気づくことが成長に結びついている。

さらに、この気づきは常に他者からもたらされている。第一話のさくらは幸太郎に無理やりステージに立たされることによって、第二話のサキ・リリィ・ゆうぎりはさくらの即興ラップによって、第三話の愛と純子はゲリラライブを行う他のメンバーの姿を見ることによって、その思い込みに気づかされる。

十一話と十二話では、他のメンバーの「無理」を覆してきた当の「源」であるさくらが「無理」に囚われる。が、ここでもやはり幸太郎や他のメンバーやファン達という他者によってその思い込みに気づかされる。

意思の疎通が困難であるたえでさえ、さくらの根気強い「教育」によってアイドルらしい所作を学習し、最後にはさくらの「無理」が思い込みであることを気づかせる為に動く。

ではなぜ「無理」だという思い込みは生まれるのだろうか。

それは学習によってである。源さくらについては端的に「持ってない」という言葉によって表現される。能力や努力が足りずに「無理」なこともあるが、能力が努力が足りていても運が悪いだけで「無理」だと認識してしまうこともある。そのせいで、何をやっても無駄だと学習してしまう。

さくらの「学習性無気力」が最もわかりやすく描かれてはいるものの、他のメンバーについても基本的には同様だ。

サキ、リリィ、ゆうぎりは、個別に具体的に描かれているわけではないものの、第二話においてサキが三人の心情を代表的に表していたと考えるべきだろう。最初に目覚めたさくら本人と同様に、ゾンビになってしまった自分がアイドルになるなど「無理」だと思っていただろうし、そのことに価値も感じていなかっただろう。彼女らにはアイドルではない生前の自分があるし、その自分がゾンビの身でアイドルになるというのは通念上は「無理」である。

愛と純子については他のメンバーのレベルの低さやアイドル観の違いが直接的な「無理」の原因になっているわけだが、さらに根本的な原因は自身のアイドルとしての経験から過剰に学習してしまっていることにある。生前の記憶にない新しいアイドル像としてのフランシュシュを経験することで、徐々にその思い込みを剥がされていく。

『ゾンビランドサガ』という作品が発しているメッセージは以下のようになるだろう。

  • 人は、本来可能なことを「無理」だと思いこんでしまうことがある
  • その思い込みは過去の経験から学習することによって形成される
  • 形成された思い込みは他者の働きかけによってのみ思い込みだと気づくことができる

視聴者が『ゾンビランドサガ』からエネルギーをもらうことがあるとするなら上記のメッセージを形を変えながら繰り返し発し続けていることよるのだろう。


私達はゾンビである。ゾンビは生きる屍だ。生きる屍という比喩は生きている人間にこそ用いられる。人は生きてゆく中で様々なことを行い、その結果から学び、自身の行動を修正する。複雑化したこの世界において、行動の結果は期待せざるものであることが多い。我々は肥大化した制限条項の中をかいくぐって生きている。本来できるはずのことを自ら禁止することで安定した生活を手に入れる。そしてできるはずのことを「無理」だと断じることでいつのまにか生きる屍に成り下がるのだ。

学習性無気力という言葉を心理学的な症状として捉えれば、普通の人々にはほとんど無関係だと感じられるかも知れない。大抵の人は「何をやっても無駄」と感じるほど無気力ではないし、仕事や娯楽の為には気力を発揮することもあるだろう。

しかしそれは数多の学習の末、気力を発揮できる方向性を自ら限定してきた結果にすぎない。自分が何をしたいのか、という問いを封印し、自分は何ならできるのか、何ならやっても許されるか、という観点でしか考えなくなってしまったゾンビなのだ。自分が無気力であることに気づいてすらいない、意思を剥奪された木偶なのだ。

そしてゾンビはゾンビ同士で馴れ合って、「私達には無理だよね」「俺たちには無理だよな」というコミュニケーションを繰り返す。無論その事によって終わりなく続くかに見える安心安全な日常がもたらされていることも確かだ。しかしそれは墓場の日常である。

『ゾンビランドサガ』では、生きる屍であるゾンビたちが斯様な思い込みを少しずつ塗り替えることで新しい現実を手に入れていく。佐賀を盛り上げることなど無理。自分がアイドルになるなど無理。あの人とわかり合うことなど無理。確かにどんなに逆立ちしても無理なことは現実にあろう。しかしそのいくつかは思い込みなのだ。思い込みであることに気づいた者は、望んだものを手に入れることができる。

もし俗に言う「学習性無気力」の人間が心に傷を負っているとするならば、この世を生きる人間の殆どは数え切れないほどの傷を負って生きている。傷を負っていないように見える普通の人々ほどそうである。彼ら彼女らの心を可能性の方向へと開かせることは難しい。自分の今の生活を延長させることにしか関心が無い。そのような人々の心にこそ、『ゾンビランドサガ』は気づきを与えるのだろう。いくつかの「無理」が思い込みであり、自分自身の心が激しく傷ついた状態であるという気づきを。それ故に作品は癒やしになる。自分にも何かができるかも知れないと思わせる。

ゾンビという言葉は生きる屍以外にもう一つの言葉を連想させる。復活だ。人に元気を与えて復活させるのがアイドルであるとするならば、ゾンビとアイドルというテーマは実はそう遠いものではない。『ゾンビランドサガ』ではまさに源さくらを無気力から復活させる者として水野愛を描写した。そして源さくらは今や自分自身がファンを「がば元気に」させるアイドルとなった。

本来はアイドルを追いかけるファンたちこそが、アイドルから元気をもらい復活のきっかけとしているという意味でゾンビである。しかし『ゾンビランドサガ』ではゾンビこそがアイドルとして活動する。我々と変わらない、生きる屍のゾンビが、アイドルとして他者を勇気づけている。そのことから再び「学習」すれば、私達も墓場を抜け出すことがあるのかも知れない。

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