世の中には頑迷な人がいる。保守的な考え方を絶対に改めようとしない人。無鉄砲な行動を絶対に悔悛しない人。そういう人はなぜ存在しているのかふと疑問に思った。
例えば選挙では固定票みたいなものがある。絶対に自民党に入れる人たちや、何があっても共産党に入れる人たちだ。世の中はそういう人ばかりでなく、その時時で意見を変える人がたくさんいるから選挙の結果は毎回異なるのだろうが、何があっても頑迷に支持政党を変えない人というのは明らかにいる。
合理的に考えたら、時と場合によって投票先を変えたほうがよい。自分に利益をもたらさない相手を頑迷に支持し続けるのは非合理的だ。選挙に限らず、自分に利益をもたらす行動をするのが生き物として正しい選択であるように思える。
しかし、そうでない人はたくさんいる。現代社会では金を持っていることが幸せになる第一にして最大の条件だと思うが、進んで金持ちになりたいと思わない人もいる。こうした人の選択は非合理的だ。しかし、そういう人をどんなに説得しても守銭奴や我利我利亡者にならないこともあるだろう。
別の例で言えば、勉強が得意でない学生に「真面目に勉強しろ」といくらいってもしないケースがある。勉強すれば将来いいことが待っているということは、きっと本人にもわかっている。でもやらないのだ。殆どの場合「できない」のでなく勉強を「やらない」。そこには何か合理性を超えた無根拠な頑迷さがある。
こうした人が存在する意味とはなんだろうか。自分の仮説は、「人智を超えた事態に種として備えるため」である。人間の知能には限界がある。種としての人間にどのような災害や不幸がもたらされるか予測できないことも多い。人間の知能によって「合理的だ」と判断できる範囲で合理的に振る舞ったところで、人間の知能を超えた事態には対処しきれないのかもしれない。そのため、種としての人間は敢えて非合理的な部分を残した。そしてその非合理的な部分がある集団において「頑迷に公明党を支持する」だったり、「頑迷に勉強をしない」という行動に表れるのだろう。人智を超えた事態においては、無根拠に頑迷に行っていたそれらの行動が役に立つかもしれないからだ。
人間の不合理さ、頑迷さ、言い換えればバカさには人智を超えたものに対する備えとしての意味がある。そう考えると、聞き分けのないバカを見かけても多少は優しくなれるというものだろう。まあ、聞き分けのないバカが増えすぎても困りものだが。