中島敦『文字禍・牛人』角川文庫
中島敦『文字禍・牛人』角川文庫
「文字禍」はゲシュタルト崩壊を先駆的に扱った小説として理解されていたり、情報の濁流に呑まれてしまう人間の像を描いた作品だと理解されているようだ。もちろんそのような側面もあるだろう。しかし、より本質的には人間が言葉を操っているのではなく言葉が人間を操っているという事態への転倒が描かれているというべきだ。
人間が話し言葉のみを使う場合、そのコミュニケーションは多くをノンバーバルな要素に依存する。言葉は自立できない。声のトーンや身振りや話者の属性に多くを依存する。言葉の上では全く同じフレーズであったとしても、言葉以外の文脈に依存してしまう。
しかしそれが文字として記録されたらどうなるか。話し言葉にあったノンバーバルな要素が消し去られてしまう。文字は物理的な存在として物象化する。池澤夏樹はこの作品の解説で「現実にある物が文字に置き換えられると影が薄れる。つまり文字というバーチャル・リアリティーの方が優位に立つのだ。物は質量があるから重いが、文字は紙と筆、コンピューターとインターネットの中で自在に動く」と述べているが、私は全く逆の感想を抱いた。中島敦は物象化した文字を描いたからこそ、老博士は重い粘土板に押しつぶされて死ぬのである。
言葉がノンバーバルな文脈から切り離されると、あたかも言葉が自立しているかのような感覚を人間は抱く。「言葉が独り歩きする」のは、文字として情報が伝達されるからだ。本来の意図とは異なる方向に文字は理解され、時には言葉を発した本人すら、文字化した過去の自分の言葉に束縛されることになる。言葉を発する者と、発された言葉のどちらが主体なのか。文字に縛られる人間は、むしろ隷属的な立場に置かれることになる。
「斗南先生」について。「文字禍」がゲシュタルト崩壊を先駆的に扱った小説だとすれば、「斗南先生」は発達障害を先駆的に扱った小説だと言って差し支えないだろう。中島敦は伯父である斗南先生の人格を以下のように分析した。
1.意志
自分が嘗つてその下に訓練され陶冶された紀律の命ずる方向に向かっては、絶対盲目的に努力し得ること。
つまり、自分が好きな漢学の分野については異常な執着と集中力を見せたということであろう。
2.感情
行動の動機は悉く感情から出発している。甚だ理性的ではない。その没理性的な感情の強烈さは、時に(本末顚倒的な、)執拗醜悪な面貌を呈する。彼の感情がそれである。が、又、時として、それは子供のような純粋な「没利害」の美しさを示すこともある。
これは斗南先生の衝動性をよく表現しているだろう。作中でも度々斗南先生の衝動的な振る舞いが描写されている。
3.移り気
彼の感情も意志も、その儒教倫理(とばかりは言えない。その儒教道徳と、それから稍々喰み出した、彼の強烈な自己中心的な感情との混合体である。)への服従以外に於ては、質的には頗る強烈であるが、時間的には甚だしく永続的ではない。移り気なのである。
斗南先生はこの移り気により、「一生ついに何等のまとまった労作をも残し得なかった」とされる。一方で、「記憶力や解釈的思索力」においては「異常に優れて」いた。
斗南先生自身もこの性質について自覚的であり、「斗南狂夫」と自称したそうである。これは「天下の狂人」という意味らしい。斗南先生は終生独身だったようだが、斗南先生は明治大正を主に生きた人だろうから、皆婚社会だった当時としては珍しい人だったのではないだろうか。生活資金は友人や弟達や弟子達の援助に殆ど頼っていたと書かれている。摩擦の多い社会生活を送ったであろうことは想像に難くない。