最近の記録
日記を書いていなかったので書く。最近は明治〜昭和初期にかけての日本の近代文学を読んでいる。理由は三つくらいある。
一つは、近所の書店で容易に手に入ること。幸運なことに自分はこの時代にも関わらず書店のある町に住んでいる。町の書店で、岩波文庫や専門書のようなものは当然置いていない、いわゆる町の本屋さんであるが、そうした本屋でも新潮の古典は置いてある。漱石や鴎外や太宰治や芥川だ。
二つ目の理由は、読書がメンタルに良い影響をもたらすからだ。特に文学の読書は恐らくメンタルに良い。調査により数字として効果があることがわかっていることのようだが、自分にとってもこれは当てはまるようだ。7,8年位前に急激にメンタルが落ち込んだ時にはカズオ・イシグロや夏目漱石を読んだ。かろうじてメンタルが正常なくらいまでに持ち直したことを記憶している。今回も様々な小説、特に食わず嫌いしていた森鴎外や芥川を読んでいささかの発見もあった。
文学がメンタルに良い影響を与える一方で、実務的な意味のある本は特にメンタルに良い影響を与えないようだ。例えば技術書やノンフィクションだ。これらももちろん読めば面白いが、メンタルが回復するといった効果は認められない。
文学がメンタルに良いのはゲームがメンタルに良いのと似ていると思う。両者ともニュースやSNSや俗事から心が離れる。社会から心が切り離される。そのことが瞑想のような効果を発揮するのだと考えている。両者とも純粋な心理的な経験である。金や地位や将来や人間関係に影響を及ぼすことは直接的には無い。そのため、読書やゲームの最中はいくらでも誤読や失敗ができる。サンドボックスのようなものだ。嫌になったらいつでも辞めて良い。いつでも辞めて良いからこそ、辞めずに続けられる。読書やゲームとはそういうもので、だからこそメンタルに良いのだろう。
三つ目の理由は、コミュニティの一生というものについて最近考えているからだ。コミュニティの始まりには、面白い人たちが集まって、面白いことをやるが、それを見に面白くない人たちも集まり、やがて面白くない人たちが面白くないことをするようになり、面白い人たちが去り、面白くない人たちだけが残り、コミュニティは一生を終えるという、あのひろゆきが言い出して広まったとされる説だ。この節には一面の真理があると考えている。コミュニティの一生は特定のネット掲示板やSNSなどのインターネットコミュニティについて言われる言葉だが、実際にはもっと大きな対象についても当てはまる法則なのではないかと考えている。例えばインターネットだ。インターネットはもう面白いコミュニティとしての一生を終えかけている。もしかしたら既に終わっているのかも知れない。
インターネットと同じ様に、かつて面白いコミュニティとして機能していた場所があった。それが近代文学だ。これは私の仮説である。しかしそう外れてもいない仮説だと思う。日本の文学はもうコミュニティの一生は終えている。文学は、面白い人と面白くない人両方を引き寄せるような磁力はもはや持っていない。コミュニティとしては死んでいて、形式だけが存続している。文学はインターネットの先輩だと考える。近代文学は2ちゃんのコピペやテキストサイトやFlashアニメのようなものだ。そこには多様な人が集まり、名作が生まれ、村社会のような縦横斜めの人間関係があった。一読者がサイトの管理人に突然連絡を取ることができたのと同様に、無名の文学青年が作家の家に突撃することができた。現代の面白い人は小説を書かないと思う。
では現代の面白い人は何をやっているのか。インターネットじゃないならどこなのか。それは目下探している最中で、もしかしたら同時代人にはそれと認識することができず、10年後や20年後にそれだったと気付かれるようなものなのかもしれない。我々はテキストサイトやエロゲーレビューサイトが滅んでいくとは毫も考えていなかった。あらゆるホームページは固有の掲示板を備えているものだと思っていた。それは、滅んだ後に貴重だったし熱狂していたと気づくもののようだ。
現代に存在する面白いコミュニティの条件を探すために、私はインターネットの先輩としての近代文学を読んでいる。そこには確かにテキストサイトと同じような実験と大衆性が併存している。日本人が言文一致体を手に入れてまだ数年〜数十年しか経っていない時代だ。言文一致体は新しいテクノロジーであり、テキストサイトにおけるHTMLと同じ様なものだっただろう。作家はいくらでも独自性を醸すことができた。自分勝手な文体を作ることもできた。今回泉鏡花の小説は初めて読んだが、現代人が読めば日本語としておかしいと感じるだろう。谷崎潤一郎も文体の上でかなりの実験を行ったことは知られている。現代の新人作家が同様の文体で新人賞に応募したらどうなるか興味があるところだが、ほぼ確実に落選するだろう。本文が良い悪いの前に「文章の体を成していない」という理由で却下されるものと思われる。それは終わったコミュニティの証拠である。
同じことがインターネットにも言える。今日テキストサイトを自分で作って公開するものには僅かなアクセスすらも与えられないし、「マーケティングができていない」と評価されるのだ。これも既に死んだコミュニティの徴と言えないだろうか。